クリニックの建物の中を知っておられる方は思い起こしながら読んでいただきたい。
クリニックには2階の東に、ちょっとしたテラスがある。
テーブルとイスが置いてあって、季節のいいときは気分よく過ごせる。
春には天神川の桜がいいショットで眺められる。
秋には暑くも無く寒くも無く、ボーと出来そうなところ。
しかし、夏は全く影が出来ず、海水浴場の真ん中のようにカンカン照り。
冬は吹き付ける雪が直接あたり、傘なしではびしょびしょ。
クリニックで唯一喫煙できる場所。そこが、そんな状況だ。
院長はそこにグリーンなんかを置いて、影でホッとできる空間を作ることが理想のようだ。
その手始めにカフェ風のテント、つまり、日よけテントをつけることにした。
手動を付ける予定で、風がきつい日はカラカラと巻きいれて、日が照ったり、雨が降れば出さなければならないが、駆け出しクリニックとしてはコストが何倍にもなる電動には到底、手が出ない。
数日中には見積もりを持ってきてもらい、交渉する予定。
取り付けは、半日ほどで終わるそうだ。
テントが付けば、次の院長の計画は、テラスの脇に水道の蛇口をつけること。
春先の黄砂のころは、畑の横の道?というくらい、砂埃で真っ白なテラスになる。
そのころ、ルームセクレタリーのスタッフといっしょに、バケツリレーで水を運び、デッキブラシでごしごしやったものだ。
バケツリレーは両手で満タンのバケツを20mくらいを運ぶ。何往復したことか・・・。こんな状況じゃ、緑を植えるわけにはいかない。
今年の夏にテントを取り付け、いつか水道の蛇口をつけ、さらに、もっと先に緑を生やす・・・。
そして、喫煙場だけでなく、憩いの場になれば・・と理想を描く。
いつになることか・・、楽しみは実現したら楽しみでなくなるとも思うが、小さな小さな夢はこつこつ実現するように努力しよう。
eri.hosoda
出生率
よくクリニックと関わってくださる営業の方や、同業者の方に
「細田クリニックお産毎月どれだけあるのですか?」や、「どんどん増えるといいですね。」と言われる。
もちろん、クリニックの経営も考えなくてはならない立場としては、「今月お産ないんですよ。」とは、言いたくないし、考えたくはないが、多くあればあるほどいい、とは全く思ってない。
ある程度のお産が増えれば、それだけの、キャパシティーも必要になるし、人手もいる。それに、患者様と接する時間や内容が薄くなってしまう。それだけは避けたい。
だから、とりあえずドンドンお産の数を増やしたいという思いは頭の中にはほとんどない。院長も私も。
その反対に、日本の出生率はドンドン上がってほしいものだ。
一ヶ月ほど前に出された2006年の出生率が、ほんのわずかだが6年ぶりに上昇した。確か、「1.32」だったように思う。
それだけ聞いても、ピンとこないが、戦後直後の昭和20年代は「4.54」、私の国家試験勉強をしたころの昭和50年代は「1.90」だったと思う。そのとき、「2.0を切った」と新聞やニュースで大騒ぎだった。
それからさらに減り2006年は「1.32」。こうして数字を並べるとよくわかる。
でも、私の周りに「絶対子供はいりません。」という夫婦は誰もいないし、むしろ、不妊治療が活発になって、以前よりオープンになってあらゆる方法で妊娠できるケースも増えてきている。
なのに減っていく一方。
景気が悪いから?(でも、どん底の不景気は脱しているのでは?なぜなら、土日のダイヤモンドCITYや高島屋に向かう車の数は半端じゃない)
世の中が育てにくい雰囲気だから?(親がしっかり楽しいこと、うれしいこと、幸せになることを教えてあげたら絶対育て甲斐があると思う)
独身女性が増えたから?(でも、シングルマザーも増えている)
私が出生率低下の原因を探ったところで何の解決にもならないが、来年の今頃2007年の出生率が2年連続上昇していることを望む。
eri.hosoda
家族
いつものようにお産の始まる光景。
二人目さんであり、陣痛が来たら早いかな?という予測通り、本格的な陣痛到来後、30分ほどで分娩室へ入室。
一人目さんが1日以上かかったため今回のスピードはご主人はもちろん、お母さん本人も私たちもびっくり。
あっという間に、お嬢ちゃん誕生。生まれてきて、まだ臍の緒を切ってないくらい直後に・・、おめでとう!とその言葉とともに・・、私は迷いもなく思った。
「ダウンちゃんだ」って。
クリニック始まって初めての境遇。そのときのスタッフ&院長の判断で
お父さんにはお産直後に、ダウン症である確立が高いことを告げた。
本当に立派なお父さんで、しっかり現実を一人で受け止めてくださった。
お母さんにはのちに告げた。大きなショックである中、
やはり母の感、生まれてきて間もない我が子の顔を見てなんとなく感じていたと言われた。
入院中に映ったこの家族、この赤ちゃんの居場所はこの家族にしかない、と思うくらい暖かく、やさしく素敵な家族であった。
もちろん、夫婦の間には私たちには計り知れない葛藤や悲しみもたくさんあったと思う。これから先、どんなことと向かい合わなくてはいけないのか、考えても答えはない悩みもたくさんあると思う。
そんな環境の中での家族。接するだけで、私はもちろん、スタッフみんなが、感動と多くの教えをもらった。
こんな前向きな父と母・・。
こんなに助け合える父と母・・。
がんばって普通に大切に育てていくと堂々と言える父と母・・。
ダウン症であることをすぐに教えてもらえてうれしかったとすぐに言える父と母・・。
この子を細田クリニックで生んでよかったと気配りをしてくださる父と母・・。
私たちの家族を選んで生まれてきてくれた、と喜びとして言える父と母・・。
そして、
「これからお産される人の中には、私たちのようにダウン症の赤ちゃんを迎えるかもしれない家族もあるだろうから、是非ブログに載せてください、主人とそう話していたんです。私たちが誰かわかってもいいので・・」と話してくださったお母さん。
そんなこと言えるお母さんは女神のようだと思う。
生まれてきた赤ちゃんは世界一幸せな家族を選んで生まれてきたんだろう。
こんな素敵なお父さん、お母さん、お兄ちゃん、そして、おじいちゃん、おばあちゃんの元だから、幸せの保障つきで生まれてきたのだろう。
退院の後、お母さんさんが、「激動と感動の毎日でした」と、言ってくれた。
「激動」はそりゃそうであろうと、思えるが、「感動」の毎日と表現できるなんて・・。心から思う。この夫婦、お兄ちゃん、そして、生まれてきた赤ちゃんに出会えたこと、たくさんの感動をもらい、教えられたことに、本当に、本当にありがとう。
eri.hosoda
ブログを書く
前回のブログから1ヵ月近く経つ。
この間、何度か書こうとしていた。
書きかけたら携帯が鳴って「お産の方がきはります。」というコール。
書きかけたら睡魔が襲って、2行ほど書いて知らない間に寝てしまったこと。
書きかけたらやはり違うことを書きたくて書き直し、また違うことを書きたくなって、結局その日は止めてしまったこと。
でも、毎日何十人という方が、このブログを開けてくださっている。
その事実は毎日わかっているのだが・・。
すごく楽しみにしてくださっている方もいてくださる。
「うどんとお産」のブログを読んで、お父さんが「記念になりました」と1ヵ月健診のときお礼を言ってくださったり。
去年の4月16日のブログの題が二人四脚で、それが本の題になっていて、自分の出産した日と同じだったので感動しました、とお礼の手紙をいただいたり。
ブログを書くことで、クリニックを知ってほしい、スタッフのいいところをアピールしたい、クリニックの本音を伝えたいなどなどいろんなクリニックの一面を知ってもらう反面、本来のブログ=日記という意味で、私自身を見つめなおして反省や自分への奮い立たせの役目にしたり。
実際、経理や事務的なこと、人事やお給料のこと、そして助産業務、夜の待機、家のこと、子どものこと、などなど、必死で前しか見えず突進していると、フッとブログを書くことで我に返ることがある。もちろん、ブログだけでなく、スタッフにフォローしてもらったり時には喋りこんでストレス発散させてもらったり、友達と全く医療から離れて話したり、いろんなことで私を救ってもらっているのだが・・。
院長の妻として経理はしません、人事もしません、とか、助産業務だけやってたらいいのです、なんて言ってしまったらおしまいかな、と思っている毎日。
院長の妻であり、経営者であり、かつスタッフであり、助産師であり、ちょこっとだけ母をやり、そして、気が利かない仕事のできない私を支えてくれるスタッフや院長、家族がいてくれる限り、体力の続く限り、今の生活をやっていこうと思う。
そしてブログも発信し続けようと思う。
eri.hosoda
助産師学校の友人
先日、助産師学校時代の友人と会う機会があった。
助産師学校・・私たちの時代は、つらくて、苦しくて、泣きながら実習を行っていた。本当に本当につらかった。
久しぶりに会って、その頃の思い出を語った。
しかし、彼女は、今、外交官の妻。
来月からご主人と子どもたちと3年間フィリピンの外務省へ赴任することが決まっている。
外交官の奥様の世界は、私たち助産師には想像を絶する世界だった。
お産の経過を推測する私たち。・・彼女は、他の国の外交官の奥様方に、どのように会話するのか考えている。
どうしたら、おっぱいがよく出るか考えている私たち。・・彼女は、どうやって世界の外交官夫妻を接待をするか考えている。
毎日、患者様にどうやってサービスをするか考えている私たち。・・彼女は、日本の代表する身なり、しぐさ、行動を身につけなくては、と考えている。
同じ学校を卒業して、今は全く違う世界。
私は、彼女の生活を尊敬し、絶対私には出来ない世界だとつくづく感じた。
(彼女は、「今の時代に産婦人科を立ち上げていく世界の方が凄いよ」と言ってくれたが。)
夫についていく妻としては、同じ立場であるが、知らない世界に入っていかなくてはならないということは私と全く違う。
そんな彼女は、てっきり助産師の仕事を忘れて今の立場を充実させているのか、と思っていた。
しかし、彼女は、言っていた。
とりあえず、また、お産に立ち会いたい、早く助産師に復帰したい、と。
赤ちゃんの香りを匂いたい、おっぱいのあとの「ガフォッ」というゲップを耳元で聞きたい、と。
私たちが行っているお産の介助、毎日変化する赤ちゃんの匂いや普通に聞いている赤ちゃんのゲップ。
産科から離れてみて初めて、産科でしか感じられない数々に懐かしさを感じるのであろう。
別世界にいる彼女から、改めて教えられ、新しい刺激とリフレッシュをもらった。
いろんな人のお産にめぐり合える場所にいることは、すばらしいことなんだ、ということを。
感謝、感謝。
eri.hosoda