月別アーカイブ: 2006年10月

ハロウイン

4ac49110.[1]

今日は10月31日、ハロウインの日だ。
最近、この何年かでハロウインが浸透してきているような気がする。
クリニックにも診察場と受付カウンターにハロウインの置物を置いておいた。
それから、←この写真は、厨房とセクレタリーの若いOさんHさんの仲良しコンビで考えてくれた今日のおやつだ。最高だった。

さて、ハロウインとは、何でしょう?と聞かれたら、答えられる人は何人いるだろうか。仮装して、かぼちゃにペインティングして・・・くらいしか、知らない人が多いと思う。
実は、ハロウインとは、過去に亡くなった人が、この日によみがえると言われていて、その前夜祭が10月31日なのです。日本で言うお盆のようなものらしい。
日本ではそういう意味合いは、ほとんど薄れていて、かぼちゃのお化けだけが強調されて、「亡くなった人」という意味合いはなくなっているように思う。だから、クリニックでも飾ることができるのであるが・・・。
さて、話しが変わるが、ハロウイン(過去に亡くなった人がよみがえる)という意味にピッタリの出来事があった。
10月のはじめに主人の大学時代の友人(女性)が亡くなった。癌であった。
「主治医はあと余命3カ月って言われたけど、私は一ヶ月やと思うよ」と、笑顔で淡々と話してくれた。まさに、一ヵ月後であった。
しかも、2年前に私の友人が同じ癌の死であった。
私も、結婚式にも来て頂いていたし、入院中お見舞いにも行ったのでよく知っている。
その方が亡くなって約3週間後の今日、主人宛に、手紙が届いた。
亡くなった彼女のご主人いわく、お見舞いに来てくれた人みんなに手紙を書いておられたそうだ。
亡くなる前であろうか、字体は震えているような字体であるが、産婦人科を開業しているという、世間の逆境に立っている私たちに応援、励ましの手紙だった。
自分の死を目前に見つめながら、私たちに喝を入れてくれるパワーは、本当に尊敬してしまうし、感謝しないといけない。
本当に天国で見ていてくれるような気がする。だから、もっとがんばろう、と今日改めて思った。                  eri.hosoda



 





 

立会い分娩

先日、細田クリニックでお産をされたお母さんと話す時間があった。
2月にお産をされたので、そのとき生まれた赤ちゃんは、ハイハイどころかつかまり立ちをしている。驚き・・・。
あの、おっぱいを吸っていた赤ちゃんが、パンを手に持って食べている。
お産に立ち合った2才になるお姉ちゃんは、保育園に行っているので会えなかった。
お母さんに聞いてみた。
「お姉ちゃんお産の光景覚えてないでしょ?」って。
それが、驚く答えが変ええてきた。
「しっかり覚えてるんですよ。クリニックの前を通ると、
『ママここでウーンウーンって言ってたな』とか『○○ちゃん(←妹)とママがここに泊まって△△ちゃん(←自分)はおばあちゃんと病院来たよ』って言うんですよ。」
分娩室の中の状況もはっきり覚えていて
『先生いたね~』
とか
『○○ちゃんママの向こうにねんねしてた』
というらしい。
分娩台の向こうに新生児用のベッドがありそこに妹が寝ていた光景をパパに抱かれて、確かに見ていた。
そのときは無言であったが、しっかり覚えているのだ。
赤ちゃんがどうやって生まれてきた、とか、生まれた直後の新生児の姿は記憶から消えているのであろうが、ママがしんどそうにしていたこと、家族が4人になったことは覚えているのだ。
今まで、経産婦さんの半分以上の方はパパといっしょに上のお子さんが立ち会っている。
例えば、お母さんが陣痛のときはいっしょになって、呼吸法をやり、手やおなかをさすって、がんばって~って涙ウルウルの子。
生まれて、おめでとうの声に泣き出す子。
眠いのに必死で目をこすりながら起きている子。
生まれた後の反応は、3才くらいまでのお兄ちゃんお姉ちゃんは、不思議そうに、また、想像していた赤ちゃんと違うことに一瞬固まってしまう。でも、拒否はしていない。
でも、それ以上の年令のお兄ちゃんお姉ちゃんは、本当にうれしそうにしている。足をさわってみたり、ずっと、そばにいたがる。パパが帰るよ、と言っても帰りたがらない。
子どもを立ち合わせるか否かはご両親の考えであり、立ち会うことがいいかどうかは各家庭によって違って当たり前である。
最近、毎回妊婦検診についてきているお兄ちゃんお姉ちゃんはお産が夜中でも起こしてほしい、というらしい。きっと、家庭でも、家族が増える、妹か弟が生まれるという会話がなされているのであろう。
私たちは、分娩に立ち会った子どもたちが、家族が増える、ということを喜びに感じられるような自然な雰囲気を作っていかなくてはいけないのであろう。
それは難しいことに思うが、作り上げた雰囲気ではなく、スタッフもご両親も自然な係わり合いをしていれば、2才であっても、5才であっても、家族が増えたことを自然に受け入れて記憶に残って行くのではないかなあ、と思う。
                          eri.hosoda

新生児室

赤ちゃんのいる新生児室。
母児同室であるが、夜中には、2~3人新生児室でお預かりすることがある。
そこで働く看護師。
もし、そこに隠しカメラがあったら、こっけいな看護師であろう。
なぜなら、新生児室勤務経験者ならわかるであろうが、新生児室で働くと独り言が増えるのである。
私もそうである。
全く話しをしない新生児を前に、こちらは自然に話しかけてしまう。
今、おっぱいが終わったばかりなのに泣いていると、
「なんで?今飲んだでしょう?まだ欲しいの?」とか
オムツ変えたところにブリブリってまたウンチをしたら
「あ~あ、今変えたところなのに・・・」などなど。
以前10人以上新生児がいた病院で働いていた頃、一度に何人も泣き始めると、オムツを替えて、ミルクを上げるにも順番になってしまう。どんどん火がついたようにみんな泣き始める。
そんな時、「ちょっと~、看護婦さん一人だよ。泣く子はだれ?静かに~。飲んだ子はもう泣かないの。聞いてる?」
など、会話している気になる。まさに、独り言。新生児は答えはしてくれないし、聞いてもいないだろう。
相棒の看護婦に「今誰かと話ししてた?」とよく聞かれたものだ。
応えてくれない新生児にも、自然に語りかけてしまうことは、変でもなく、すごく当たり前のことであり、人として接している証であろう。
中には、自分の愚痴を話してる看護師もいるかもしれない。
新生児みんなが、記憶を持っていて何年か先に話しをしたら、
「あの時看護師さん、ボクにこんな話ししてたよ」とお父さんやお母さんに話されてしまいそうだ。
                               eri.hosoda



なべ

今日は水曜日。クリニックの夜診がない日である。
だから、いつもより早く夕飯になる我が家。
早いといっても、普段が8時半だから、7時半くらいでも早いなあ~と感じるだけであるが。
今日はさっそく、この秋初の鍋に挑戦。
私の料理は同じように作っても日によって味が違う。主人や子どもたちは、まずい、こそ言わないが
「今日のこれ、すごくおいしい。でも、次は、同じ味じゃないよなあ~」
と当たり前のように言う。
だが、鍋のだしだけはいつも同じ味で、おいしくできる。
いつも、自画自賛。
今日も、だしを最後に飲み干す主人と子ども。
今日も満足な私だった。
鍋に限らず、家族がそろう夕飯時は私は好きだ。
もちろん、テレビに釘付けになる子どもに注意し、また、行儀の悪い食べ方をしていれば間髪いれずに「何してんの!」と小言はつき物であるが。
夕飯は、子どもたちが成長していくにつれて、さらに親が産婦人科という環境であれば、4人そろって食卓を囲むことは減ってしまう。
日によっては、みんなばらばらという日もある。
先日スタッフの一人と話しをした。
「家族で食卓を囲むのは、すごく大切と思うけど、子どもが小さいから主人の帰りは待ってられない。」と。
そう考えると、家族全員がいただきます、と一緒に食事ができるのは、一時のことかもしれない。
我が家では、少々の待ち時間は平気になっている。
もちろん、日によっては、待ちきれないくらいおなかが空くこともあるが、お産ではなく夜診だけで帰宅するであろうという日は、主人を待つ。私の考えが、働いてくるお父さんを待ちなさい、とずっと思っているから、子どもにも自然にそう思っている。
先に食べる日はお産で何時になるかわからない日だけ。
私はぎりぎりまでクリニックにいるので、予想して(これは、帰ってこれないな)という日だけ、子どもたちだけで先に食べる。
私は10時でも11時でも夕飯だけは主人を待っている。「先に食べてていいよ」と言われると私はすごく悲しくなる。
みんなそろってという夕飯時がいつまで続くだろうか。
あと何年か先には、夫婦二人分だけ作って食べていることであろう。
でも、その何年か先には、息子夫婦、娘夫婦が孫を連れて帰ってきて、食卓を囲むのを想像し楽しみにしている私である。
                    eri.hosoda