先日、台風が過ぎて、晴れ間の見える京都。
車で移動中、突然、院長が「虹!!見て見て!!」と言い出しました。
目を凝らして、建物の合間を見ると、クッキリとした虹。
虹なんて、何年見てないだろうか・・。
10年以上見ていないかも・・。
見る余裕がなかったのか・・。
虹すら、見られない自然環境になったのか・・。
うれしくって、窓を開けて、必死で写メを撮る私。
虹のできる仕組みを科学の授業のように語る院長。
しばらく、車を走らせても、まだ、クッキリ見えました。
しかも、虹の出発点?一番下?もわかりました。
気分も良くなります。
帰ってから、さっそく、自分の手帳に「虹見た」と書こうとしましたが、なんと、虹という漢字が浮かびません。
最初に書いたのが「紅」。
明らかに違います。こんな感じの字だった・・しか、わかりません。
情けない大人です。
でも・・・・
数日前、スタッフと
「今の子ども、辞書が使えないよね」という内容の会話をしました。
確かに、我が家も小学高学年頃だった息子に「辞書で調べなさいよ」と言ったとき、辞書の使い方を知りませんでした。挙句の果てに「僕、辞書持ってない」と。
ちゃんと部屋の本棚に辞書はあったのですが、存在すら意識下になかったのです。
スタッフの息子さんも同じような状況で、「ビックリしたわ!」という、主婦話。
私たちの子どものころは、パソコンもなければ、電子辞書なんて存在すらなかった時代。
辞書で、漢字の意味を調べる宿題もありました。重い辞書を学校に持っていくこともあり、苦痛でした。
現代の学校、考えたり、調べたりする努力する過程を教えない学校が増えてしまう・・つまり、考える力がつかない、調べて知るという努力やわかった時の達成感を知らずに成長する、ということ。
良くないこと、とはわかりつつ、ついつい、楽な方法をとってしまうのです。楽な手段が手軽にあるから仕方ありません。機器を使うことが100%悪いことではないのですが。
人間だけが考えたり、字を読んで知ることができる特権なのに、放棄してしまっていることは、もったいないし、怖いことかもしれません。
子どもだけでなく、私たちもです。
手紙を書くことも減り、すべて、メール。メールなら漢字もすぐに出てきます。
だから、「虹」という漢字が浮かばなかったのです。
情けな~い、話・・・・。
eri.hosoda