年別アーカイブ: 2015年

正しいことを教える

昨日からテレビは、イスラム国による人質事件のニュースばかり。
一人のジャーナリストが殺害されました。
全く政治や宗教を知らない私たちでも、卑劣極まりない行為だと感じます。
同じ人間のやることではないし、なぜ、こういうことが起こるのか、理解に苦しみます。
お金や死刑囚と命(日本人人質)の引換、その思考回路。
犯人も同じ人間であるのに、どこで、そういう思考回路が生まれたのでしょうか?
もし、もし万が一、その犯人?テロリスト集団?の一人が生まれた直後に、日本のどこかの家庭で育てられていたなら、きっと、テロリストなんかになっていなかったはずです。
周りの環境、親の影響、友達の影響は、怖い・・と思い知らされました。

このニュースが騒がれ出した時、ふと、思い出したことがあります。

数か月前、ある患者さんのお子さんがキッズコーナーで遊んでいました。
その時のお子さん(男の子)の言葉を思い出したのです。
私は、診察の順番が来たママに「先に診察室入っていてください。お子さん、お連れしますよ。」とお伝えして、なかなかキッズコーナーから動こうとしないお子さんをなだめて、靴を履かせようとしていたのです。
キッズコーナーは、数人遊んでおられたので、プチ保育園状態。
ままごとセットのくだものをその男の子は握っていて、他のお子さんが「それちょうだい・・」みたいな会話がなされたのです。そのお子さんは、それを渡すのが嫌だったのか、「それちょうだい・・」と言った子にパンチしたのです。
幸い空振りっぽい感じというか、握りこぶしはそのお子さんには届いていないので、ケンカにはなりませんでしたが。
その時一応大人である私は「あ、(笑)、お友達、叩いたらダメだね・・」と言いました。もちろん、よそ様のお子さんですので、ニコニコして、軽くですが。
そのお子さん、すかさずこう言ったのです。
「でもな、アンパンマンもいいもん(正義の味方ってこと)やけどな~、パンチするで~」って。
そうなんです。
みんなちびっこが見ている正義の味方、アンパンマンも、自分の敵とみなした相手には、暴力を振るっているのです。
私は、どう返したらいいのか答えられず、何も言わずに、お子さんと手を握って、診察室に入りました。
そのお子さんは、すごく良い子。このアンパンマンの暴力を引きずっていくとは思えないし、一緒に来られていたママも礼儀正しい方だから、まっすぐに育てられるだろうと思うので、全く不安はなかったのですが。
子供たちは、見ているのです。
テレビの中のアンパンマンのやっていることを。
人気があるアンパンマン、激しい戦闘ものでもないし、それを見せておいたら子どもは静かだし、どこのママも見せておられることでしょう。
その映像の中の正義の味方は、暴力を振るっていたのです。
だから、自分も同じことをする・・、当たり前ですよね。
それでもって、お友達には暴力はいけないよ、とか、人を叩いたり蹴ったりしたらだめよ、と教えていかなくてはいけない矛盾。
アンパンマンは正義の味方だけど、アンパンマンだけはパンチしてもいいのよ・・なんて言うのも説得力ないし。

多くのちびっこたちはこのアンパンマンを見ていると思います。その年代は、アンパンマンの世界も今の世界も区別を知りません。だから、その発想は正常。
でも、ちびっこ達は、アンパンマンとは関係なく日常の中で、暴力はダメだということを親や周りから教えられます。
そして、アンパンマンの暴力は忘れて、あれは、テレビの中の話、漫画の世界と区別できて、大きくなっていくのでしょう。

話を戻すと・・・
イスラム国の犯人は、きっと、正義の味方は、暴力を振るってもいいのだ、正義の味方なら人を殺してもいいのだ、と信じて育ってしまったのでしょう。
正義の味方は、そんなことをしない!ということを知らずに、そのまま、後藤さんに手を挙げてしまった・・・。
なんと、幼稚な!!!
なんと、未熟な!!!
なんと、バカげた!!!
アンパンマンを見て、かっこいいと思っているのと同じやん!!!

4,5才の男の子の一言。
今回の人質殺害事件のニュースを見て、私の中で蘇りました。

アンパンマン、どんどん子供たちのとりこになっていくし、微笑ましいし、全然OKだと思うけど・・。
強烈パンチだけでなく、話し合いで解決?!なんてストーリーも、作ってほしかったな~(笑)
eri.hosoda

震災から思う

震災から20年。テレビなどの報道は、当時のドキュメンタリーをしたり、それを教訓にしたドラマを放送したりで、いつもより、いろいろな思いがふつふつと起こりました。

1月17日、阪神淡路大震災のおこった日。
京都にいた私は、全く被害を受けていません。
朝、出勤するまで、事の重大さにも気付いていませんでした。
その日は、すごく寒かったけど、いい天気で、青空が広がっていたと思います。
産婦人科病棟(以前の職場)は、忙しくなく、お産の方もいらっしゃらず、ゆったりとした空気が流れていました。ただ、テレビを付けると、時間が経つにつれ、死者の人数が増え、倒壊家屋の様子、火災の様子が映し出されるようになりました。全テレビ番組が番組やCMを差し替え、被災状況を放送しており、これは戦争じゃないか!!と思うくらいの怖さを感じたものです。
職場のスタッフ一人が神戸出身で、母親と連絡が取れず、仕事終了後、バイクで京都から神戸に向かうと言いだし、心配したものです。(お母さんは無事に、避難所に行っておられました)

そのあと、2011年には、東北の大震災。それも、この世の出来事と思えない、津波。
被災された当事者の方には、本当に申し訳ありませんが、映像でした記憶がなく、第三者としての思いしかないのは事実です。それでも、身震いするほど怖いし、恐怖を感じます。

次、何が起こるかわかりません。今日、何かが起こるかもしれません。
もし、京都に津波が来たら、おそらく日本のほとんどが海の中になるでしょう。 
今、富士山が噴火したら、日本はパニックでしょう。
数日前、京都南部に震度3の揺れを感じました。
院長は、お風呂に入る直前。脱ぎかけた服のまま、クリニックに安全確認の電話をしていました。その時は「結構揺れたね」だけで済みました。
もし、その時に未分娩の方がいらっしゃったら、お産を終えなくてはなりません。外は被災状況でも、
出産場面では、普段と変わらず、「おめでとう」ということでしょう。
当事者でないとわからない恐怖や危険は、その恐怖や危険の空間にならない限り、日常にダブらないのかもしれません。

そんな中でも、常に危機感を持つこと。
こんなに未曾有の災害があっても、体験していない私たちは、家もあり食べ物もあり、テレビも電気もある。
あっという間に普通の現実に戻ってしまう。
だから、今回、数々ある報道番組を見ていて、悲しくなったり、再び起こるのではないか、という恐怖を感じたけれど、同時に、1995年1月17日の記憶をたどれば、その時いっしょにテレビを食い入るように見たスタッフの顔、その時の天気や病棟の雰囲気、出勤前に親が電話してきてくれた会話、神戸に住んでいる友人に電話するため、病院の公衆電話の前に並んだこと、そんな内容の記憶が1995年1月17日の記憶であることに不思議な感覚を覚えます。非情に思うけど、事実です。

20年って、あっという間でした。

これから20年もあっという間であることは、間違いありません。
しかも、20年後は、今生まれた赤ちゃんは、数知れない体験をすることができます。
でも、私たちは、いや、私は、今できていることが、できなくなる年齢になっているはずです。
もしかして、あと20年も、生かされないかもしれません。
だから、これから先、震災の体験をしていないからありがたい思いだけで生きていけるし、人間、記憶する真逆の忘れるということができる勝手な生き物なので、生きていける、のです。
でも、決して忘れてはいけないこともあると思います。そして、忘れてはいけないことは、語り継がなければならないのです。
それは、自分で考えて、時にはみんなで考えて、ありきたりな表現ですが、大切に生きていこう・・と思います。

数日経ちましたが、20年を迎えて思うことを記しました。
6400名の方に黙祷。
eri.hosoda

2015年

2015年、今年もみなさん、よろしくお願いします。

今年は年始早々、大雪に見舞われた京都。交通網が、最悪な状況でした。
北海道や東北の方から今回の京都の雪を見れば、それっぽっちの雪で生活に影響なんてありえない!とお叱りをうけそうですが、京都の人間にとっては、61年ぶりの大雪だったわけです。

元旦、午前中は晴天でした。
前日から陣痛で頑張っておられたママが朝8時過ぎに、出産。
すごく頑張られたお産だったので、院長も「いい気分の仕事始めだ・・」と笑顔でした。
それから数時間後、あっという間に吹雪。
しかも、乾燥した道路や樹木には、パウダースノーはあっという間に積雪になります。
お墓参りに清水のあたりに出かけたのはいいのですが、体に積もっていく雪を払いながら、バス停へ。
なんと、100人は並んでいたと思います。
じゃあ、タクシー捕まえよ!と、切り替えたものの、空車なし。
家族4人で分散して空車を探し、やっと1台見つかり、大声で家族取集し、乗り込みました。
それでも、全く進みません。走った方が早いほど、渋滞です。
やっと帰宅後は、今帰れてよかった・・と思うほど、ドンドン、ドンドン、振り続けました。
まるで別世界の雪景色です。
夜もカーテンを開けて、外を見てみる院長が「外が明るい!夜とは思えない明るさだぞ!なんか、変だぞ!!」と。
雪国育ちの私には、当たり前じゃん!と思えることを子供のように叫ぶ院長でした。
わずかな光が雪に反射するのでしょうか。空もグレーっぽく、外も夕暮れ時のような色で・・。
私にとっては、久しぶりに見た雪降る夜の外でした。

2日の夜も同じくしんしんと雪は降り続きましたよね。
3日の未明、お産の方でコールされた院長。
玄関のドアを開けて立ちすくむ院長に、思わず、私の長靴を差し出しました。
辛うじて履けたレディースの長靴ですが、新雪の上に足跡をつけながら、走っていきました。
新雪の上を踏むことも、京都では滅多にできません。踏みつけた時の、ギュギュときしむ音、懐かしい音です。
走ってクリニックに入った院長は、脱ぐとき、長靴がフィットしすぎて、脱げず、苦労した~足首からちぎれるかと思った~と後で苦笑いしていました。
こんな時用に、院長の長靴も買わないといけませんね。

休みで帰省していた子供たちもそれぞれ帰っていきました。
子供たちの帰っている時の洗濯物の量!数年前までこれだけあったんだ~と懐かしかったですが、雪のせいで外にも干せず、乾かず、新年早々、大量の部屋干し実行。滑稽でした。
食事の量!院長と私二人の生活とは違って、冷蔵庫満タン。常に食べることを考えていました。
いかに、夫婦二人の生活は、手抜き?適当さ?楽さ?・・かを感じました。
やること増える子供らの帰省。でも、「次はいつ帰ってくる?」と聞く私。
娘は「友達の結婚式で3月に帰るわ。また、連絡するわ・・」と。
今回はランチも買い物も行けなかったから、今度は行こうか・・と約束。
息子「春休みに帰る。友達連れて帰ってくるわ。何人までOK?」と。
何人でもいいけど、雑魚寝やで!部屋に入れる人数にしてよ・・と。彼女込でもいいよ・・と言うが、完全無視!
男臭い数人と帰って来るらしい・・。

こうして、今日から、普通の生活。
出産された方からの年賀状を見つつ、でも、1週間前と何も変わってないなあ・・と思ったり。

今年もいろんなことありそうな予感と予定。
いいことばっかりではないかもしれません。

でも、それがまだまだ未熟な私たちに課せられている課題なんだと肝に銘じていこうと思います。

もう、5日経ちました。
何に向かっていくか、どこに向かって生きているのかわかりませんが、時間に乗っかって頑張っていこうと思います。

eri.hosoda