今日は、京都の行事、大文字の送り火。
北山に住んでたころは、偶然にも、「鳥居」以外全部見渡せた。
右京区に引っ越してからは、一度も見ていない。
今年は、主人の母の初盆。きっと、この数日は、うちのお仏壇に帰ってきていて、今日、送り火とともに、また、浄土に戻っていくのかな・・と思ったりして。
今、産科の中にいると、命の誕生がメインになる。(もちろん、おめでとう、それだけではないが)
大病院での産科は、産科だけではなく、産科に婦人科が付く。
婦人科の方の中には、最後を迎えられることも時折あった。
その方々のお顔、お名前は、覚えているものである。もう、10年以上前の方でも、その頃のお顔が浮かぶ。
今お会いしたら、「あんた、年取ったわね・・」と言われそう。
ちょっとは「成長したね」と言ってほしいが、みなさん、今の私を見たら、そうは言れないだろうな・・と想像する。
考えてみたら、助産師になってから今までの年数と生まれてから助産師になるまでの年数が全くいっしょ。
生まれてからの年数は日々成長したと思う。体も心も。
でも、同じ年数を助産師として生きているけれど、成長は目に見えてないかも、と自己反省。
主人も、医師になってから今までの年数と生まれてから医師になるまでの年数が全くいっしょ。
(注*もちろん、二人は年数は違いますが・・。)
そんな、振り返りをしてみた今日の16日。
送り火とは関係ないけど、医師・助産師として人生の半々を生きていたことも何か反省や振り返りをしなさいという諭しかも・・・と思ったり。
送り火は見えないこの家から、送り火をおがみ、母だけでなく、今までクリニックでも、流れてしまった小さな小さな命の分も母に浄土へ連れて行ってもらおう・・なんて勝手なお願いもしてみたり。
eri.hosoda
年別アーカイブ: 2009年
手前味噌
今日の妊婦健診で、驚く傾向を目にした。
驚くという表現の喜びでもあり、ありがたいこと。
それは、今日の午前の外来予約人数表を見て、妊婦健診の予約者は17人。
他の日より、少なめだな~と思い、「今日は妊婦さん少ないね」と話していると、
受付のスタッフが、「でもね、見てください。知ってる名前ばかりでしょ。17人中13人経産婦さんで、10人が一人めさんをうちでお産された方ですよ。」と教えてくれた。
もう一度今日の外来予約表を見返してみると、「〇〇××子さん、知ってる知ってる。△△さん、知ってる、まだ1年ほど前にお産されたんじゃない?〇△さん、えーと、あっあっ思い出した!!えっ、△〇△さんも妊娠されてたんだ!!」と、次々に顔を思い出した。
一度来て頂いた方に、また、選んでいただけることは、すごくうれしく、光栄だ。
何か2回目だと、特典あるわけでもない(ごめんなさい)し、エステやヨガなど、産科以外のイベントもやっていない。
それでも、また、細田で産んでみよう!細田の外来に通って見よう!と思ってもらえることは、感謝しなくてはならない。日ごろのスタッフの自然な接し方、何を意識しているわけではなく命を扱うプロとして当たり前の姿が、きっと、次も細田にしよう、と思ってもらえたんではないかな・・と自慢できる。こういうのを手前味噌というのかも。
そういえば・・
昨日、オープニング以来お世話になっている某会社の担当者の方とお話した。その方に、「僕はいくつか産婦人科でお仕事させてもらっていますが、細田さんが一番きれいに使っておられますよ。お世辞でもなく、本当に。消耗するところは仕方ないですが、全体の雰囲気がきれいですよ。」とほめて頂いた。
毎日クリニックの中にいると、最初の新品さが無くなっているから、古くなったな~と感じてしまうけれども、古い=汚いわけではない。大切に大切に使っていこう、と改めて感じた。大切に扱ってくれているスタッフ、特に環境整備の一切を担ってくれているルームセクレタリーに感謝感謝だ。またまた手前味噌?!
外来での、うれしい発見のあった7月31日。
夏休みで子連れの患者さまが多く、待合室はにぎやかな雰囲気だった今日。
最近は自ら帰り際に「シールください」と院長に申告してくる頼もしいちびっ子も続出。
そんなちびっ子が来てくれる事も、「よかったな」と思えるありがたさだ。
eri.hosoda
ことば
梅雨が明けたのか、まだなのか・・
年々暑さが堪えるようになってきた。
ある日の買い物のできごと。
コロッケを買う列の後ろで、聞いていた話。
Aさん:すごく上品などこかの奥様~という感じの方。
店員さん:今風の若い女の子。
Aさん「あの、このコロッケを3個ほどいただけますか?」
店員さん「3個でいいですか?」
Aさん「はい、それくらいでいいです。すいません。少なくて。ほんの3~4個でいいんです。」
店員さん「4つですか?3つですか?」
Aさん「4つでもかまいません。申し訳ありません。」
店員さん「では、4つ入れておきますね。」
Aさん「よろしくお願いします。本当に少なくてすいません。」
こんな会話。短く書いたが数分続いた。
奥様も全く悪気はない。コロッケなんか数個買うのは普通であるが、きっと買いなれてないのか、3個や4個買うのは申し訳ないなあ、という思いであったのでしょう。
店員さんも、1個であってもはっきり1個と言ってもらえれば、そんなにイライラされなかったと思うけれど、コロッケの数に「3つほど・・」というあいまいな表現に戸惑ったのだろう。
スタッフと妊婦さん、スタッフとスタッフ、院長と患者さん、院長とスタッフ、私とスタッフ、そして院長と私も・・・
たくさんの人間関係が絡み合ってクリニックが成り立つ。
ことば。そして、表情。電話では、声の表情。
たくさんの表現すべてことばだと思う。日々私も振り返り反省の日々。
コロッケを買う現場だけでも、言葉の掛け違いがあるわけだから、私たちのまわり日常茶飯事にあることなのかもしれないけれど、命を見合う産婦人科では、掛け違いのないようことばを大切にしなくてはいけない。
余談:徳永英明の「ことば」朝日生命のCMで流れていたのをご存じでしょうか?
(もう、今はやってないかな?)
♪♪言葉って 本当は
仲良くなるためにあるはずなのにね・・・♪♪
そうですよね。決してことばだけでいがみ合いたくないもの・・。
歌が気になる方、ネットで検索してみてください。
eri.hosoda
無
ブログを書く間隔が本当に空いてしまった。
毎日、書きたいテーマ、出来事、題材はあるのだけれども、書くからには、リアルに描きたいと思う反面、実名はもちろん、私や私の家族以外は、名前を挙げることは出来ず、その内容によって、人が特定されることは控えてしまう。
そうなると、パソコンのブログを書く画面を開けながら、数分悩み、やめてしまうこともある。
書き出したら、15分20分ほどで、打ちこんでしまうので、ブログを書くこと自体は全く苦ではないのだが・・・。
いろんなことを書きたいので、人物を消去して書くことは難しい。
頭の中にいろいろ描く。頭の回転にはいいかも・・。
反面、最近、無になることも覚えた。
ブログを書くときはもちろん、仕事をしているときは、ブログを書くことの何十倍もの頭の中身をシャッフル、回転させている。
お産を介助しているとき、目の前の状況を把握し、かつ、数秒先を予測し、かつ、会話を成していかなくてはならない。妊婦さん、妊婦さんのご主人、スタッフ、そして、生まれた赤ちゃん。医療者として発した言葉は、責任もあるし、相手の方にどう伝わるのか、大切なこと。目と耳と口と手と大活躍させる。時には、足も・・。
その他、クリニックの中でのすべてのことが、頭の中でパチパチ音を立てながら、脳ミソが頑張っている。
そんな毎日、《無》になることを意識しだした。
それは、お寺の修行でもなく、麻酔にかかるわけでもなく・・・。
それは、一人で何かに没頭しているときだ。
私が数年前、開業が決まってから資格を取得したフラワーアレンジメント。一つの作品を仕上げる30分ほどは、時間が経つことを忘れる。我ながらすごい集中。自分が助産師であること、クリニックの一員であること、妻であること、母であることを全く忘れている。無になっていることすら気づいてなかったが、主人に「フラワーしているとき別人みたいに真剣やな」と言われて、自分が《無》になっていることに気付いた。
最近、お花を触れるチャンスがないことと、夏場は花の寿命も短く控えている。作り上げた作品は、クリニックに置き、少しでも、なごめれば…(なごんでなかったらごめんなさい)と思っているのだけれども・・。
それから、もうひとつ、《無》になれること。
それは、4月のブログでも書いたが、ピアノを弾いているとき。
近所に聞こえたり、家の中でも、雑音に思われないように、もっぱらヘッドフォーンを着けて弾くピアノ。
気づいたら、3時間経っていたりすることも。
ピアノを弾いている間、ひたすら、楽譜を読み、自分の音だけを聞いている。
他の事は全くよぎらない。だから、時間の間隔も忘れる。寝る時間を削ってでも、時間を忘れるくらい没頭できることが心地よい。
この2つ。フラワーとピアノ。
大人になってから、やりたくって習って、さらに資格を取ったフラワー。
小さい頃、泣きながら練習して、ピアノを弾く意味もわからず過ごした幼稚園、小学生の頃、中学、高校の頃は、それを一生のためにやろうとしたけれど、叶わずあきらめた、ピアノ。
全く違うとっかかり。でも、今のハードな日々の中で、疲れてしまう日々の中で、誰の手も借りず無になれる時間があることがうれしいし、幸せかも・・と気づいた。
だから、何億もの脳細胞を動かすクリニックでの生活もやり遂げられるのかもしれない。
eri.hosoda
細田JAPAN?
毎日のこの生活の中で、院長唯一の気分転換なのであろうか?わからないでもないが・・・。
最近、サッカー放送がよくある。その時間帯は、テレビと一体化になっている。
試合中2時間は、産婦人科医でもなく、父でもなく、夫でもなく、まさに、なりきりJAPANの監督。
私には、どうも理解ができない。
学生時代にサッカーをやっていたわけではない。
かつ、野球も大好き、巨人戦が始まれば、食事の手も止まる。
本当にサッカーファンなら、野球は2の次でしょ。
なのに、サッカーが始まると、私の声は聞こえないらしい。(携帯は聞こえるらしいけど)
選手の動きや相手の動きに、檄を飛ばす。
キムタクと長嶋監督の「セコムしてますか?」のコマーシャル、キムタクがリビングで野球観戦していると、テレビの野球中継の中に入ってしまう場面があるが、
まさに、院長もそのまま、テレビの中に入っていくのではないか、と思うくらい。
そして、横に座っている私の背中に足蹴りがあたる。ボールを追う選手になりきってゴールしているのだ。
まるで、監督のように、「絶対△△(選手名)を出していた」とばかりに、論説し始める。
自分がその場でボールを蹴っ飛ばしたら、確実にゴールしてた、とばかりに、自慢する。
そして、次の試合のメンバーを選んで、「〇〇を出さなかったら、日本は負ける!」と解説者より先に言う。
何年か前に、ある妊婦さんのご主人が、陣痛で入院された横でサッカーの試合を見ておられた。
院長はその姿を見て、
「男はみんなそうなんや。サッカーはどんなときにも見たいねん。」と、私にここぞとばかりに自慢げに言っていた。
しかし、よくよく話を聞いてみたら、その御主人は、パープルサンガのコーチ。
それならわかる。そういう方なら、周りの声が聞こえないくらい集中していて当たり前。充分理解できる。クリニックまで来られただけでもすごいと思う。
そのご主人とは全く違う。サッカーとは全く縁のない産婦人科医。
試合が始まると同時に丸々試合終了時間まで、素人監督になれるな~と関心してしまう。更に、夜のスポーツニュース、翌日の新聞、とチェック。
「もう、結果わかってるんやから、わざわざニュース見て確認しなくていいやん」と私が突っ込むと、「これは、絶対見ないとあかんの!!」とわけのわからない回答。
試合中あまりにもテレビに夢中になっているので、
「な~、あの選手に混じってやってみたら?2~3分走ったら、息ができなくなるか、足がつって、すぐ、担架で退場になるって。ボールも1回も触れず、一生懸命走ってもテレビにも1回も映らず。選手からは、何なん、このおっさん!!としか思われへんよ。」と茶化してみる。
そんな私の声は聞こえていないであろう、聞こえていても、答えることすらできないようだ。細田JAPANの監督になっているか、青いユニフォームを着て走っている自分をダブらせているのであろう(笑)
何年一緒にいても理解できない行動だ・・・。
eri.hosoda