月別アーカイブ: 2014年9月

地球規模・・

御嶽山が爆発しました。ニュースでは、朝から大きな時間を割いて、報道しています。
海外の友人が、御嶽山爆発のニュース、やってるよ!との連絡もくれました。そんなに恐ろしいことです。
爆発は、まだまだ、終息していません。火山活動が活発になっているとの報道も。
心肺停止の方が、山頂に残されています。
有毒ガスが発生いしているため、救助活動もストップです。
それを見守る家族の方々、どんな心境でいらっしゃるのか、その場に私がいたら、どんな言葉をかけられるのか、
考えられません。何も言えない、怖いだけです。

こんな、日本に住んでいます。
津波、地震、火山爆発、土石流、洪水、多くの天災が予測なしにおこる日本列島。
一瞬にして、家も笑顔も命も失うこともあります。
御嶽山の爆発、1分前には、きれいな紅葉と澄み切った青空を写真に収め、気持ち良いな、なんと幸せなんだろう・・、頑張って山頂まで登ってよかった、幸せ!、今度は誰と来ようか、次はどこに行こうか、と語り合ったことでしょう。
明日からの仕事、また頑張ろか!とパワーを蓄えられた方もいらっしゃったことでしょう。
でも、そんな思いは一気に消されてしまって・・・。

おばあちゃん、ひいおばあちゃんの時代から、天災は発生し、被害もありました。歴史の教科書でも学びました。
が現代は、人口が増えているため、被害を受けられる方々が多くなっていることは間違いありません。
天災だけでなく、昭和初期、病気が流行して村中の子どもが亡くなった・・、戦争で村中の男の人が帰らぬ人になった・・、そんな時代もあったのですから、いつの時も命を脅かす怖い悲しいことはあったことも違いないのですけど。
今は、テレビやインターネットニュースの普及により、第三者の私たちも、事細かに、リアルタイムに、漏らさず知ることもできるのです。
そして、何気ない日常が裕福で、恵まれているからこそ、次々に知る情報は、余計に怖いし、悲しい・・・。

地球が発生して、45億年。その地球の寿命はあと数億年。
そんな地球の歴史からみると、火山爆発、津波、地震は、45億年の歴史の中では、記録にも残らない一瞬の点にもならない出来事。
人間の寿命年齢およそ80年。45億年とこの数字、比べ物になりません。
でも、その一瞬の点に生きている、たった80数年寿命の人間にとっては、最近起こる天災は一瞬の点ではなく、大きな大きな衝撃なんです。

朝起きておはよう~と言えること。
3食食べられたこと。
テレビを見て、いろいろ思うこと。
ケンカすること。
子どもに小言を言うこと。
それだけで、幸せなんですよね。
何億の精子とたった1個の卵子の出会いで命が生まれてきてくれたこと。
それがどんなにすごいことか、奇跡なのか。

なかなか、日々、気付きません。
すべて、当たり前になってしまって・・・。
みんな、元気な明日があると思っているし、生きていることを前提に考えている明日。
でも、何が起こるかわからない明日なんです。

被害に遭われた方のご冥福をお祈りします。

eri.hosoda

8月のこと

先月、院長の父が亡くなりました。

本来、このページに記すことではない、みなさまに関係のないことです。また、文章に著すということは、思いをさらけ出さなくてはならないし、形として残ってしまうので、少し勇気のいることです。でも、産婦人科医であった父のことを、肉体は変貌してしまい形すらなくなりましたが、魂・思いは最後まで産婦人科医であり、変わっていなかったと思います。

 

なので、私の勝手で、ここに記させてください。

 

父(私からは義父です)は、産婦人科医でした。

現役の時はもちろんのこと、亡くなる直前まで気持ちの持ち方は医者としての存在。

かつ、頑固でわがままで超・超・まじめで・・・。きっと、入院中、病棟の看護師さん方々はやりにくかった面もあるのかも・・と想像します。

体は数年前から身動きができなくなり、ほぼベッド上の生活。そして、今年5月に、ガンが診断されました。

ガンが診断されたときの父は、すごく冷静でした。

81年生きてきたら、何かの理由で亡くなるでしょう。ガンのステージが進んでいるなら、何もしたくない。楽に逝かせてほしい。」とはっきり、主治医にも私たちにも伝えてくれました。

ただ、苦痛なく余生を過ごしながら逝くには、疾患の性質上、気管切開を選択しなければなりませんでした。そうしなければ、窒息の状態を我慢し続けろ!という状態を招いていまいます。

最初は気管切開術を渋っていましたが、苦しむことを避けるなら・・という理由をわかってくれて、気管切開術を受けてくれました。それが、7月中旬。

それからは、発声は無理です。意思の疎通は、文字盤を使ったり、口パクで会話したり。そういう状況も、1度もイライラもせず、受け止めていました。

 

ガンの告知を受けてからこの3か月、たく
さんのことを学びました。

今の日本の医療では、ガンの治療(手術、抗がん剤や放射線治療)を選択しないケースは、急性期病棟(手術や積極的治療をする病棟)に入院することができません。最初に診断してくださり、気管切開の手術をしていただいた先生の元は、10日ほどで退院です。余儀なく、次の行き場所を考えなくてはなりませんでした。

ここ数年、緩和病棟やホスピス、介護が必要な高齢者施設あちこちに新設されており、情報は豊富でしたが、家族が通える範囲にある施設、本人や家族の納得いく介護・看護の期待を得られる施設、かつ、気管切開をしている者が入所できる施設は限られています。

我が家の場合、父の長男(院長)も次男も産婦人科医。お産進行中の方がいらっしゃったら、親の死に目には会えないと覚悟をしていた院長ですが、それでも、少しでも近い距離がいい。母は他界しています、そうなると、私が動いてあげないといけないのはわかっているので、私も仕事の合間に動けるところで。それらをクリアしないと、父は、孤独になっていまします。

全てそうでしたが、ひとつひとつ家族が決めたこと、やってあげたいことを、その都度父に伝えることはしました。一生懸命81年生きてきた父の最後。やってあげられることは、できる範囲でやってあげたい。心残りのないように。亡くなってから、後悔したくない・・・。すべて、主語は私たちが・・、時には、私が・・、だったような気もします。でも、父の満足する顔を見たい、思い残すことなく逝ってもらいたい、という思いです。

看病する方はどんなに大変でも、息を引き取ったら、父は2度とこの世に来られないのですから・・・。

 

いろんな方法で、次の施設(つまり、死を迎える場所ってことです)を探し悩んでいる真っ只中、私もいっしょに働かせてもらった先生と、偶然ご縁があって、緩和病棟に空床があることを教えていただき、入院することができました。

そこでの生活は、たった3週間ほどでしたが、主治医の先生、スタッフの方に本当に、とても、良くしていただきました。

私も、仕事に穴を空けるわけにはいきません。その中で、やってあげられること。

それは、できるだけ、顔を見に行ってあげて、話して、洗濯し、着替えやおむつ交換を手伝い、お茶や食べたいという物を口に入れてあげたり、時には、固形物は無理だったので、とろみをつけたり、ジュースにしたり。また、主治医の先生に話を聞いたり、書類にサインしたり。最後はそばで泊まることも。

父は、少し動く手で、握手を求めてきたり、「ありがとう」や「また来てね」と声のない口パクで語ってくれたこと、私の自己満足でしかありませんが、その言葉を思い出すと、父の望んでいたことに少しでも近づけたのかなと思っています。

本当の親子のようにしていたからこそ、ケンカもしました(笑)

もう、父のがんこさにはやってられない、無理だ・・と私がギブアップしそうな時もありました。そんな時は、いつも誰かクリニックのスタッフが話を聞いてくれました。たくさん聞いてくれました。本当に救われました。

タイミングよく、おじさんやおばさんがメールをくれました。電話くれました。父の様子も報告することで安心できました。

昔からの私の友達が、様子を伺ってくれました。応援してくれました。

だから、いろんな人のお蔭で、拙い私でも、役目も果たせて、私たち家族も穏やかに父を送ることができたのだと思います。

 

父の亡くなる数日前は、病院から何度か、呼ばれました。もう、脈が触れない、血圧が測れない、呼吸が危ない・・と。少しずつ、消え逝きそうな父を目にしていました。

しかし、不思議なことは、本当にあるものです。奇跡でした。

それは、亡くなる前日、突然、父の意識がクリアになり、脈もしっかり触れ、歯が見えるくらいニコニコしていたのです。もしかして、このまま何か月も頑張れるかも・・と思うくらい。

そんな日に偶然、私と院長と弟が病室でいっしょになり、父の前で、帝王切開の話、お産の話をしました。昔話もしました。父は嬉しそうに聞いていました。大好きな甘い物、アイスクリーム、ピノを院長と私と弟と父と分け合って食べました。私たちは、1粒を一口でペロリですが、父は、あの小さなピノ1粒を5回くらいに分けて食べます。

父の口に食べ物を入れてあげられるのは、この数か月、私の役目でしたから、1粒のピノをティースプーン4分の1ほどの食べやすい大きさに砕いて、溶けないうちに必死で父の口に入れてあげました。

それはそれは、嬉しそうで「もう、なくなったよ。全部食べたから、おしまい。」と伝えると、わかったと言わんばかりに、最後にお茶を求めてきました。相変わらず、まじめな父でした。

誰が、こんな団欒を作ってくれたのか、神様って本当にいる、と思う不思議な時間です。この何年も、一緒に和む時間はなかったですから。偶然が重なって、父の病室にたまたま、息子二人と私がいて、父の意識も鮮明で、大好きなアイスクリームを大人4人で分け合って、医師として仕事一筋の父と、仕事の話をし、最後は、握手をして退室したこと。この30分ほどの光景、忘れられません。

私たちにも、きっと父にも、心の中に残り続けることでしょう。

その時が、父と最後の意思疎通の時間とは、思ってもいませんでしたが。

貴重ないい時間を父に作っ