細田クリニックのひとりごと

8月のこと

先月、院長の父が亡くなりました。

本来、このページに記すことではない、みなさまに関係のないことです。また、文章に著すということは、思いをさらけ出さなくてはならないし、形として残ってしまうので、少し勇気のいることです。でも、産婦人科医であった父のことを、肉体は変貌してしまい形すらなくなりましたが、魂・思いは最後まで産婦人科医であり、変わっていなかったと思います。

 

なので、私の勝手で、ここに記させてください。

 

父(私からは義父です)は、産婦人科医でした。

現役の時はもちろんのこと、亡くなる直前まで気持ちの持ち方は医者としての存在。

かつ、頑固でわがままで超・超・まじめで・・・。きっと、入院中、病棟の看護師さん方々はやりにくかった面もあるのかも・・と想像します。

体は数年前から身動きができなくなり、ほぼベッド上の生活。そして、今年5月に、ガンが診断されました。

ガンが診断されたときの父は、すごく冷静でした。

81年生きてきたら、何かの理由で亡くなるでしょう。ガンのステージが進んでいるなら、何もしたくない。楽に逝かせてほしい。」とはっきり、主治医にも私たちにも伝えてくれました。

ただ、苦痛なく余生を過ごしながら逝くには、疾患の性質上、気管切開を選択しなければなりませんでした。そうしなければ、窒息の状態を我慢し続けろ!という状態を招いていまいます。

最初は気管切開術を渋っていましたが、苦しむことを避けるなら・・という理由をわかってくれて、気管切開術を受けてくれました。それが、7月中旬。

それからは、発声は無理です。意思の疎通は、文字盤を使ったり、口パクで会話したり。そういう状況も、1度もイライラもせず、受け止めていました。

 

ガンの告知を受けてからこの3か月、たく
さんのことを学びました。

今の日本の医療では、ガンの治療(手術、抗がん剤や放射線治療)を選択しないケースは、急性期病棟(手術や積極的治療をする病棟)に入院することができません。最初に診断してくださり、気管切開の手術をしていただいた先生の元は、10日ほどで退院です。余儀なく、次の行き場所を考えなくてはなりませんでした。

ここ数年、緩和病棟やホスピス、介護が必要な高齢者施設あちこちに新設されており、情報は豊富でしたが、家族が通える範囲にある施設、本人や家族の納得いく介護・看護の期待を得られる施設、かつ、気管切開をしている者が入所できる施設は限られています。

我が家の場合、父の長男(院長)も次男も産婦人科医。お産進行中の方がいらっしゃったら、親の死に目には会えないと覚悟をしていた院長ですが、それでも、少しでも近い距離がいい。母は他界しています、そうなると、私が動いてあげないといけないのはわかっているので、私も仕事の合間に動けるところで。それらをクリアしないと、父は、孤独になっていまします。

全てそうでしたが、ひとつひとつ家族が決めたこと、やってあげたいことを、その都度父に伝えることはしました。一生懸命81年生きてきた父の最後。やってあげられることは、できる範囲でやってあげたい。心残りのないように。亡くなってから、後悔したくない・・・。すべて、主語は私たちが・・、時には、私が・・、だったような気もします。でも、父の満足する顔を見たい、思い残すことなく逝ってもらいたい、という思いです。

看病する方はどんなに大変でも、息を引き取ったら、父は2度とこの世に来られないのですから・・・。

 

いろんな方法で、次の施設(つまり、死を迎える場所ってことです)を探し悩んでいる真っ只中、私もいっしょに働かせてもらった先生と、偶然ご縁があって、緩和病棟に空床があることを教えていただき、入院することができました。

そこでの生活は、たった3週間ほどでしたが、主治医の先生、スタッフの方に本当に、とても、良くしていただきました。

私も、仕事に穴を空けるわけにはいきません。その中で、やってあげられること。

それは、できるだけ、顔を見に行ってあげて、話して、洗濯し、着替えやおむつ交換を手伝い、お茶や食べたいという物を口に入れてあげたり、時には、固形物は無理だったので、とろみをつけたり、ジュースにしたり。また、主治医の先生に話を聞いたり、書類にサインしたり。最後はそばで泊まることも。

父は、少し動く手で、握手を求めてきたり、「ありがとう」や「また来てね」と声のない口パクで語ってくれたこと、私の自己満足でしかありませんが、その言葉を思い出すと、父の望んでいたことに少しでも近づけたのかなと思っています。

本当の親子のようにしていたからこそ、ケンカもしました(笑)

もう、父のがんこさにはやってられない、無理だ・・と私がギブアップしそうな時もありました。そんな時は、いつも誰かクリニックのスタッフが話を聞いてくれました。たくさん聞いてくれました。本当に救われました。

タイミングよく、おじさんやおばさんがメールをくれました。電話くれました。父の様子も報告することで安心できました。

昔からの私の友達が、様子を伺ってくれました。応援してくれました。

だから、いろんな人のお蔭で、拙い私でも、役目も果たせて、私たち家族も穏やかに父を送ることができたのだと思います。

 

父の亡くなる数日前は、病院から何度か、呼ばれました。もう、脈が触れない、血圧が測れない、呼吸が危ない・・と。少しずつ、消え逝きそうな父を目にしていました。

しかし、不思議なことは、本当にあるものです。奇跡でした。

それは、亡くなる前日、突然、父の意識がクリアになり、脈もしっかり触れ、歯が見えるくらいニコニコしていたのです。もしかして、このまま何か月も頑張れるかも・・と思うくらい。

そんな日に偶然、私と院長と弟が病室でいっしょになり、父の前で、帝王切開の話、お産の話をしました。昔話もしました。父は嬉しそうに聞いていました。大好きな甘い物、アイスクリーム、ピノを院長と私と弟と父と分け合って食べました。私たちは、1粒を一口でペロリですが、父は、あの小さなピノ1粒を5回くらいに分けて食べます。

父の口に食べ物を入れてあげられるのは、この数か月、私の役目でしたから、1粒のピノをティースプーン4分の1ほどの食べやすい大きさに砕いて、溶けないうちに必死で父の口に入れてあげました。

それはそれは、嬉しそうで「もう、なくなったよ。全部食べたから、おしまい。」と伝えると、わかったと言わんばかりに、最後にお茶を求めてきました。相変わらず、まじめな父でした。

誰が、こんな団欒を作ってくれたのか、神様って本当にいる、と思う不思議な時間です。この何年も、一緒に和む時間はなかったですから。偶然が重なって、父の病室にたまたま、息子二人と私がいて、父の意識も鮮明で、大好きなアイスクリームを大人4人で分け合って、医師として仕事一筋の父と、仕事の話をし、最後は、握手をして退室したこと。この30分ほどの光景、忘れられません。

私たちにも、きっと父にも、心の中に残り続けることでしょう。

その時が、父と最後の意思疎通の時間とは、思ってもいませんでしたが。

貴重ないい時間を父に作っ